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2015年4月12日日曜日

モリエール『ドン・ジュアン』1665年





『ドン・ジュアン、またの名を石像の宴』(仏語原題:Dom Juan ou le Festin de pierre )

1665年発表 パレ・ロワイヤルにて初演

1993年 Festival d’Avignonでの公演を収録したもの。

前年の『タルチュフ』の次の作品です。

舞台はシチリア。

 第1幕

 まず、従僕のスガナレルが現れます。この「スガナレル」という名前は、やはりこれまで通りに引き継がれていますが、各作品によって色々な立場としてです。今度は従僕として登場です。従僕とは言っても重要な役どころです。

 スガナレルは主人のドン・ジュアンのことを話題にします。彼は貴族ですが、大の女好きで、蝶が花から花へと飛べ回るように、女の蜜を吸います。ドンジュアンは、スペイン人ですが、彼には美しい妻エルヴィールがいるのですが、彼は彼女から逃れてシチリアの館に住み、日々、女を引っ掛ける生活を送っています。スガナレルは主人ドン・ジュアンを、女をたぶらかす悪人MECHIANであり、悪魔DIABLEであると話します。彼はひたすら女達を次から次へと欺してきたのです。

このことから、この作品は前作の『タルチュフ』とも連動していると思われます。タルチュフは悪党でありペテン師であり、悪の権化のような人物像でしたが、このドン・ジュアンもタルチュフのある種の傾向を引き継いでいるような人物のようであります。

 そしてスガナレルはドン・ジュアンのことを「征服者」なのだと位置づけ、それも「アレクサンダー大王」に喩えます。それを少し皮肉って言えば、恋のアレクサンダー大王といったところでしょうか。しかし、ちょっと待っていただきたい、征服者だの、アレクサンダー大王だのと言えば、連想されるのはフランス国王もそれに入りはしないでしょうか。当時、ルイ14世は27歳の若さでしたがが、フロンドの乱が治まり、王権は安定に向かうとともに絶対王政が確立されるに至り、次に軍事的な拡張主義へと舵を取ります。ルイ14世はヨーロッパ随一の陸軍を手に、彼の親政54年のうち実に32年間は対外戦争を行っていました。彼は戦争好きだったのです。『ドン・ジュアン』のなかではスガナレルは主人ドン・ジュアンに「あなたのことではないが」と名指しを避けつつ、主人を何度も諫めます。ですから、婉曲にルイ14世の事にも言及しているのかもしれません。前作『タルチュフ』では、悪人を懲らしめ、正義を行う王権を讃えるところが際立ったのですが、この作品では、「アレクサンダー大王」を持ち出し、王を半分持ち上げつつ、半分諫めているかのようです。

 ただ、この物語は、表向きは、貴族の精神的腐敗を描いています。王権を否定して貴族政権を樹立しようとした「貴族のフロンド」が終結したのが1653年ですので、やはり、この劇作の時期でも貴族を非難するような物語の内容になっている可能性があります。またその後の「民衆のフロンド」では手工業者や農民による<楡の木同盟>などが抵抗しました。この劇作では、貴族と農民が対立させられています。

 さて、この劇作の中では、ドン・ジュアンはまず、ある完璧な男女のカップルを見かけたのですが、その女の心を強奪する計画を立てます。しかしそこに妻エルヴィールが訪ねてきます。エルヴィールは若くて美しいのですが、気が強く、ドン・ジュアンの欲望を妨げる人物です。ドン・ジュアンは、そんなエルヴィールに激しい恥辱を与えて追い返してしまいます。しかし、これは、単に恥辱を与えたと言うよりは、妻に対して愛にも憎しみにも転びうるような、微妙なものでもあり得たと敢えて強調しておきたいと思います。
 彼が、自らの存在にかけて真に行き詰まった時には、彼は妻との関係が深まるのかもしれません。





第2幕

 さて、場面はすっかり変わり、今度は農民の素朴な男女のカップルが楽しくいちゃついています。彼らは結婚するのです。この農民の男ピエロはドン・ジュアンとスガナレルを難破して溺れかけていたのを助けたのです。しかしドン・ジュアンはピエロの恋人シャルロットに結婚をしたいと申し出て、シャルロットを誘惑して成功します。そしてそれを諫めようと登場したアチュリーヌも誘惑してしまいます。こうしてドン・ジュアンは二人の女の心を同時に奪ったのでした。何という大成功でしょうか、彼は二人の女を両胸に抱くことにまんまと成功して、悦に浸ります。彼が、それに成功したのは、彼の男性としての魅力に加え、それ以上に、貴族としての富と地位と特権があるからです。結婚を餌にすれば、いくらでも女でも手に入るのです。かれはそうやって女達を欺してきましたが、今回も大成功です。彼は女の蜜を吸うために結婚を餌にする、ペテン師です。




 しかし、また急展開します。12名の騎士がドン・ジュアンの命を狙って追跡しているという報が届くのです。ドン・ジュアンは自分の身を守るために、自分は従者の格好をして、スナガレルには医者の格好をさせ、逃げます。





第3幕

 ここからは、ドン・ジュアンのまえにいろいろな人物が現れてきます。彼らは、ドン・ジュアンに何かを問いかけるようにして現れるのです。

 逃げる道すがら森に迷い、信心深い清貧の徒と出会い問答の末、金貨を1枚恵みます。

 続きドン・ジュアンは盗賊から貴族を助けますが、彼はエルヴィールの兄ドン・カルロでした。彼は妹エルヴィールの敵を討つべくドン・ジュアンを殺しに来たのです。しかし命の恩人でもあるドン・ジュアンに猶予を与えます。

 次に現れるのは、騎士の彫像です。これはかつてドン・ジュアンが決闘で殺した騎士の墓の彫像でした。彫像に晩餐に誘うと彫像はうなずくのでした。




第4幕

 館に戻ったドンジュアンに訪れたのは、今度は借金取りです。ドン・ジュアンは借金してまで遊んでいるのです。彼は体よく追っ払います。しかし次に訪れてきたのは、父親ドン・ルイです。彼は放蕩の限りを尽くす息子を諫めに来ましたが、何の効果もありません。次に再び妻エルヴィールが訪ねてきます。彼女は最後のチャンスだ、と心を平らにして哀願しますが、これまた何の効果もありません。そこに例の騎士の彫像が現れ、晩餐に招いてもらったお礼に、晩餐に招待したいと告げられ、ドン・ジュアンは承諾します。これは死の遣いであると直感され、一連の訪問をうけて、ドン・ジュアンは追い詰められてきたのです。彼は方針を転換します。


第5幕

 ドン・ジュアンは父に改心を誓います。しかし、これは見せかけであり、以前はおおっぴらに大胆不敵に行っていたのを、今後は偽善者として生き、女遊びは密かに狡猾にやっていこうという方針に切り替えたのでした。スガナレルは、ドン・ジュアンは前よりも一層悪くなった嘆き悲しみます。

 ドン・カルロが現れ、ドン・ジュアンは結局決闘の約束をしてしまいます。次に例の彫像が現れ、改悛の最後のチャンスを与えますが、彼はこれを拒みます。
 ドン・ジュアンがこの彫像に手を触れると、彼の命は消え去り、この世から掃き出されてしまいます。

 スガナレルは、「俺の給金!給金!給金!」mes ganes!mes ganes! mes ganes!(1683年)と涙を流しながら連呼しつつ、幕は落ちます。


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 ドン・ジュアンは、タルチュフのようなタイプとは異なる人物像です。タルチュフは倒錯的なまでに本物の悪党でした。しかし、ドン・ジュアンは単純な悪党ではありません。ドン・ジュアンは通りがかりの男を利害抜きで助ける騎士道的なところがあります。また、暗に主人を諫めてばかりいるスガナレルを常に身近に置いています。妻は自分の自由を束縛する存在であるために嫌で嫌でしようがありませんが、お互い愛してないわけでもありません。彼は妻を思いっきり侮辱しますが、それは表面ばかりであり、妻の存在自体を否定しているわけでもなく、愛と侮辱の微妙な兼ね合いでさえあるのです。しかし、いざ自分の自由、特にいざ他の女のこととなると、胸を躍らせます。そして貴族の特権と富と地位を利用して結婚詐欺師のようにもなります。結婚詐欺師と言っても金を取るわけではありません。女の心と体を自分のものにして自由にするのです。彼の貴族としての体と血と既得権益は女達をメロメロにさせるのです。

 天真爛漫におおっぴらにそんなことをやり続けていたのですが、彼に改心を求める人物達が、あたかも次々にカードがきられるように、彼のまえに人物が現れます。彼らはドン・ジュアンに対して呼びかけるのです。ドン・ジュアンには何かが問われているのですが、彼には何が問われているのか、漠然としていてわからないのです。断念せよ、という彼の最も嫌いなことを突きつけてくるだけなのです。実は我々にとっても一体なのが問われているのかよくわからないのではないでしょうか。半ばわかり、半ばわからないのです。ドン・ジュアンは最後の最後まで、断念の意味がわからず、わからないことは承服せず、抵抗をして、最後は死んでしまいます。放埒な自由を断念することを求められていたのですが、彼はむしろ死を選んだわけです。一体、彼は何を呼びかけられていたのでしょうか。断念とは何のことでしょうか。