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2015年6月21日日曜日

フランソワ・ラブレー 『ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉』




フランソワ ラブレー

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫) 


1534年ごろ出版。
古い作品であり、かなり乱雑な感じさえもする、出だしはなかなか読みづらいところもあります。でもこの翻訳は岩波版よりははるかに読みやすくわかりやすいです。

 序論のところはさておいて、まずはガルガンチュアの出生の経緯についてです。母親の名はガルガメル。父親の名はグラングジエ。金持ちであり、二人とも大食漢でした。

 母親は身ごもっているときに、ピクニックで皆と一緒にどんちゃん騒ぎの大食をしていましたが、その最中に産気づきます。あまりに大量の贓物料理をたらふく食べてしまっていたので、いざ産もうとすると、脱肛が発生してしまって、肛門部が外にめくれて露出しました。産婆がやってきて、脱肛を食い止めるべく、収斂剤をかけたものですから、効果てきめんで脱肛は引っ込みましたが、ついでに肝腎の産道も収縮してしまい、産道から出産が出来なくなってしまったのです。さあ、これは一大事です。
このあたりの記述は、作者ラブレーが医師であったために、記述は具体的なところがあります。しかし、この危機的な状態に陥っていながら、その次がとんとん拍子に進んでいきます。胎児は、産道から外界に出ることが出来なくなったために、自らの判断で軽々と母胎をつきやぶり、母親の静脈に入り込み、頭まで到達して、左耳から外界へと飛び出したのでした。
これについては、聖書の物語にかかわるパロディーと見なせるでしょう。マリアは受胎告知を聴いて処女懐胎をしましたから、イエスは耳から入り、耳から出てきたという、つまりイエスはマリアの耳から産まれてきたとする説がありました。たとえばモリエールの『女房学校』では、修道女に入れられ純真無垢に育てられた娘アニエスは「子供が耳から産まれる」、と話していたのは、この説に由来するのでしょう。
 さて、この赤子の産声は、「おぎゃーおぎゃー」などではなくて、「飲みたいよ、飲みたいよ」でした。これはお乳とお酒を飲みたいよという意味です。そのような産声を上げたことから、この赤子は「喉がでかい」という意味のガルガンチュアと命名されました。ガルガンチュアは乳児期から大量の母乳とミルクとワインを飲んで、大量のうんちを排泄しながら育ちました。また、ガルガンチュアは生後まもなく洗礼も受けていました。つまり彼はカトリック教徒となりました。
 11章では、ガルガンチュアの幼年時代について描写されます。彼の幼年期は飲んで食って排泄することが主要な行いです。彼は犬と同じ皿で食ったりしていました。
 13章では、5歳ときのこと、お尻を拭くのにはどのような素材が心地よいか、というテーマで語られます。ガルガンチュアは父親相手に糞便と尻ふきの歌をひねって披露します。ガルガンチュアが様々な素材を試みて、見いだした結論は、ガチョウの雛の毛が一番心地よいということでした。
 14章。父親はガルガンチュアのこういった思考に知性を見いだしてほれぼれとして、また大変感心しました。精妙にして深遠なる知性であると。そこで「ソフィスト先生」を家庭教師につけてラテン語を習わせたところ、ますます賢くなるどころか、何故か馬鹿になっていきました。この「ソフィスト先生」とはソルボンヌの先生を暗示しているようです。つまり「ソルボンヌ野郎」です。
 15章:父親はこのソフィスト先生に殺意をおぼえましたが、人の説得で思いとどまり、やはり人のすすめで若干12歳弱の男の子を先生につけましたが、これもうまくいかずに、ガルガンチュアは泣き出します。




 一同はパリに出向くことにしました。パリでは、ガルガンチュアの大放尿によって、多くの人々が溺れてしまう事件が発生しました。ただし、これは事件とは言っても、大事件として記述のされるのでなく、一つのエピソードに過ぎないという事が特徴的です。
 パリでは、ポノクラートという人物がガルガンチュアの家庭教師となり、その生活ぶりをつぶさに観察して修正を試みました。そしてガルガンチュアは様々な学問やスポーツを行うようになりました。ガルガンチュアの学習能力の高さは驚異的ですらありました。何をやらしても大変な吸収力です。文武両道です。リスのように木から木へと飛び移るという身軽さを示しさえするのです。そして一日の終わりには、一同で神に祈りを捧げて安らかに眠るのでした。

 他方、故郷ではフーガス菓子を巡ってフーガス売りとグラングジエの領地の農夫達の間にトラブルが発生します。このトラブルの報復としてピクロコル3世は、急遽大軍を従えて進軍しグラングジエの領地を侵犯しました。当初、ピクロコルは領地内に偵察をだしても、肩すかしを食らうくらい誰もいませんでした。でも手当たり次第何でも破壊して略奪をして、やがて見つけた人々を殺戮もしたのです。
 やがてグラングジエの領地のブドウ畑に侵入しました。そこを管理しているある修道院のジャン修道士は、敵の乱暴狼藉に大憤慨して出陣しました。ジャンはたった一人で、敵を仮借なく殺戮しました。多岐には古くからの顔なじみ実もいたのですが、容赦はせず、ジャンは部下の修道士達にはとどめを刺す役を申しつけて、結局この戦闘では13662人を殺しました。
 グラングジエはピクロコル3世の侵略を聴いて、途方に暮れてどうしたらいいか分からず、悲嘆に暮れました。というのもピクロコル3世はグラングジエにとっては単なる敵ではなく、古くから親族のようなつきあいをしていたからでした。だのに、ピクロコル3世は、グラングジエの領地の領有権を主張してきたのです。そこでグラングジエは合議を開き、まず、ピクロコル3世に使者を送ってなぜこの進軍を行ったのか理由を尋ね、またそれとともに、パリにいたガルガンチュアを帰国させ、この戦争を戦う策を支援してもらうこととしました。
 ピクロコル3世は側近の家臣にそそのかされながら、領土拡大を目指していました。東欧、イタリア、スペイン、北アフリカ、ギリシア方面など広大です。フーガス売りのトラブルに乗じてグラングジエの領地に攻め入ったのはその先駆けにしか過ぎなかったのです。
 さて、解説も読んでみるとどうやらピクロコル3世とはカール5世の拡張主義のパロディのようです。カール5世は神聖ローマ帝国の皇帝となり、フランスのフランソワ1世と覇権を争っていました。
 ガルガンチュアは故郷に入るとまもなく敵と戦いを交えました。敵兵の銃弾や砲弾を頭などに多数浴びましたが、全くもろともせず、敵兵に対しては自らの愛馬の大量の放尿によって、恐怖のうちに溺死させたのでした。
 更にガルガンチュアは手にしていた大木でもって、ピクロコル3世の城塞を壊滅させ敵兵を殲滅しました。
 ガルガンチュアはグラングジエの居城へ入城して大歓待を受けました。とてつもない量の食事がだされ、また功労者ジャン修道士を交えての大宴会。大いに盛り上がりました。その中でいろんなテーマで話されるのですが、それらが、ナンセンスだらけで、パロディーらしきものであるようで、私からみれば、一体何の意味のあることなのかわかりません。
 大宴会の翌朝には早速、ガルガンチュアとジャン修道士を含めた少数精鋭部隊にて、出陣することになりました。いざ決戦です。前哨戦としては先遣隊1600人が戦いました。このときのジャン修道士の活躍はめざましいものがありました。彼の皮膚はカチンカチンで、槍の刃先も通すことがありませんでした。
 ピクロコル軍は大量の戦死者をだして後退し、ジャン修道士はトゥクディヨンという将兵を捕虜にとり、この将兵はピクロコル3世が例のフーガス事件を口実に全土侵略の野望を持っていることを吐きました。
 ジャンはトゥクディヨンに餞別さえ持たせてピクロコルのもとに戻しました。しかしトゥクディヨンはピクロコルを諫める進言をしたことで逆鱗に触れ王に殺害されてしまいました。ピクロコルはそもそもは側近の家臣にそそのかされて全土掌握という野望を抱き始めたのですが、いまは自らがその主体となって邪魔者は殺すにまでなったのです。こうなっては、もう発狂したようなものです。
 グラングジエ-ガルガンチュア陣営には、頼もしい援軍が次々に集まるようになり、軍は大きくなっていきました。そして籠城するピクロコル軍に総攻撃をしかけ、城は落とされました。ピクロコルは哀れな落ち人となり、その後は結局はリヨンで日雇い人となりはてました。
 このように、この戦争は剛胆にして痛快にしな勝利でした。ガルガンチュアは敗軍の兵たちにむかって演説をし、戦後の寛容の精神の大切さを訴えました。ピクロコルの跡目は5歳の息子が継ぎ、ポノクラートが摂政となりました。
 また功労者であるジャン修道士の望みにより自由な気風の「テレーム修道院」が建設されました。大変壮大な修道院で、その詳細が記述されています。ここでは、男も女も食って飲んで、学問をしてスポーツをして、ここで男女が結婚することもあったと言います。