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2016年4月2日土曜日

パンタグリュエル 第三の書 その1


第三の書―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈3〉 (ちくま文庫)


その1

 この著作は1546年出版されました。前作から10年後の作品。
 第一の書と第二の書のなかでは、戦争が勃発しましたが、この第三の書は戦争のない平和の時代における話です。ですから第三の書のほうがすこし緩んでいる印象があります。
 第三の書の一貫したテーマは、パニュルジュが結婚したら「ねとられ亭主cocu」になるのかどうかです。第一と第二の書では、天下国家にもまつわる話でもありましたが、第三の書では、妻に浮気されるかどうかというテーマに終始していて、小さく個人的なテーマになったようにもみえます。妻には貞淑が求められ、妻に浮気されたら夫の名誉にかかわります。妻の浮気とは「姦通」のことです。これは夫の名誉こそがテーマになっています。そして、妻の欲望がなんであるのかというテーマにもつながっています。しかしこの「姦通」「ねとられ亭主cocu」というテーマを、この書物でなぜにこんなに延々に展開していくのでしょうか。
 視野をひろげて文学の歴史全体を見ても、姦通物語は重要なテーマとして延々と繰り返されています。独身男性にとって既婚女性への愛は宮廷風恋愛の系列にも繋がる崇高な純愛でもありました。ダンテの『新生』『神曲』もベアトリーチェという既婚女性に捧げられたものであり、宮廷恋愛の系列に入れることあります。古くは古代ローマのオウディウスが『恋の技法』という著作を世に出し、大評判になりましたが、これは単に自由恋愛を説いているのではなくて、既婚女性との恋愛も含まれていて、それがゆえにアウグスティヌス帝はオウディウスを流刑にしたようです。チョーサーの『カンタベリー物語』のバースの女房の物語でアリスーンのあけすけな語りは重要ですし、また同じ著作に、夫が妻の貞節を徹底的に試すところがあります。またシェークスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』などでも、妻の不貞(実際にはありませんでしたが)がテーマになっています。またモリエールでは頻繁に妻の姦通というテーマが扱われます。近代文学では記念碑的な『ボヴァリー夫人』『感情教育』もそうですが、「姦通文学」というジャンルでも語られる。このように文学の世界では、連綿として姦通がテーマになりつづけていました。このテーマは長きにわたって流行っていたともいえるのではないかとおもうくらいです。
 この『パンタグリュエル』第三の書は、女性への貞節を強く求めるのでもなく、不貞をことさら禁ずるでもなく、女性のあるべき姿と行動はどのようなものであるのかと道徳を説いているのでもありません。そのようなことはほとんど議論されていません。ストーリーとしては、一貫して、パニュルジュのような人間が、妻に浮気される運命にあるのだ、ということです。あくまでパニュルジュの持っている「運」(あるいは「運命」)の問題なのです。パニュルジュの人間性が体質的に持って生まれたものであるのと同じくらいに彼が寝取られ亭主になることはパニュルジュの決められた「運」(「運命」)なのです。彼はどんな女性を妻に迎えても間違いなく妻がどこかの男と姦通して、彼は「ねとられ亭主」になるだろうということです。この運命(「運命」)の原因は、パニュルジュの変わることのない人間性ないしはパーソナリティにあるということです。このことを決してパニュルジュは認めようとはしません。しかし、彼のどんな人間性が原因となっているのでしょうか。それが不明瞭です。もともと、パニュルジュが登場した第二の書からして、彼は変人のような言動が目立ちますし、ある種の自己中心的でもありますし、貴婦人に対するとてつもないいたずらや言動も度を越していました。たいへん下品でもあります。そして、領地を与えれば消尽してしまいます。ただ忠義に厚い人です。彼の人物像、特性、タイプ、パーソナリティが一種独特のものであり、彼のこの雰囲気を捉えておくことが大切であると思われます。この著作の主人公は、パンタグリュエルですが、実質的にはパニュルジュだといってもいいかもしれません。
 ただ、もう一つ重要なのは、パニュルジュが不安を持ちながらもずっと主張していることは、姦通とは普遍的なものであるということです。ですからパニュルジュの「運」(「運命」)によるものなのか、それとも「普遍性」によるものか、どちらとも決めかねていて、そこでこのテーマが延々と続いているようでもあります。でもやはり、それはパニュルジュの「運」(「運命」)の方に大きく傾きかけていています。それは幾度も幾度もブーメランが自分に戻ってくるかのようです。

 次回には内容を見てみたいと思います。