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2016年4月17日日曜日

ボッカッチョ『デカメロン』 第1日目:第1話から第6話

Decameron, 1492


第1日目
 まずは1384年にヨーロッパで大流行したペストの猖獗期におけるフィレンツェでの恐ろしい惨状について記述されています。ボッカチオ自身はこのペストの流行の凄まじい猛威をフィレンツェでなくナポリで見聞きしたという話もあります。いずれにしても、戦慄の地獄絵図が繰り広げられ、人間は死の運命の前になすすべもありませんでした。ボッカチオの描写にはいささか誇張に優れたところもあるとは思いますが、死臭の漂う惨状がリアルに描かれています。その場にいれば、どんなにか恐ろしいことであったでしょう。
 そんななか、7人の若い淑女と3人の若い男性が集まり、彼女、彼はそれぞれ肉親を亡くし、話し合ってフィレンツェを抜け出して田舎の館に退避することにしました。淑女は18歳から28歳のあいだで、容姿麗しく、清らかで、気品のある血(家柄)を受け継いでいます。また召使いも何人か連れて行きました。季節は夏。暑い季節です。
 最年長のパンピネアという淑女が女王に選ばれ、彼女の提案で、1人ずつ順番に物語を披露することになりました。一番最初の語り手として指名されたのは、パンフィロという男です。彼が語るのが第1日目の第1話です。第1日目には10人が順番に語りますから、第1話から第10話まであります。10日間ありますから、合計で100話あります。相当すごい分量です。「Deca」とは「10」を表します。ボッカチオは、こんなに物語を生産する能力があったのですね。

 以下のように、日によっておおよそのテーマがあります。
・自由テーマ
・多くの苦難をへたのち成功や幸福を得た人の話
・長い間熱望したもの、あるいは失ったものを手に入れた話
・不幸な恋人たちの話
・不幸のあとに幸福に巡り合う恋人たちの話
・とっさのうまい返答で危機を回避した人の話
・夫を騙した妻の話
・男が女を、女が男を騙す話
・自由テーマ
・気高く寛大な行為についての話

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第1日
1
 チャペレットという公証人の話です。彼は悪いことをすることが大好きで何でもやりました。公文書偽造、強盗、人殺し、などおよそ思い浮かぶ悪いことは何でもやりました。思うに「7つの大罪」は全部やったようです。その彼が出張先で、どうやら病を得たのか原因不明ですが、死を目前にすることになりました。彼は死を覚悟しました。そして彼が行ったことは、これまで神に背く行為を数限りなく行ったことにもう一つを付け加えることでした。大罪の一つやり残していたので、それをやろうというわけです。つまり、教会・修道院を騙して聖人になることでした。チャペレットは、修道僧を呼び懺悔をします。彼は修道僧に自分のこれまで犯したという瑣末な罪をたくさん懺悔しました。もちろん自分が本当に犯した大罪は一言も口にしませんでした。修道僧はチェペレットがこんな小さな過ちをこんなにも悔いているとは、なんと純真で高徳で信仰心に厚いことかとすっかり驚嘆しました。チャペレットは修道士たちを見事に騙し、そして死んでいきました。彼の死後、修道士たちは町の人々にチャペレットの高徳を教え伝え、チェペレットに対する信仰が広まって行きました。この増幅効果は目覚しいものがあり、こうしてチャペレットはこの世を去った後に、遂に聖人に、つまり「聖チャペレット」となることに成功しました。
 彼は、彼の行った数々の悪行からして、当然地獄に送られ悪魔に引き渡されるべき存在ですが、もしかして天国に行ったのではないかとも思われるのです。もっとも実際はどうなったのかわからないのですが。これは未決のまま、この物語は終わりました。

 私が思うに、なんという皮肉でしょうか。大悪党の人生最期を締めくくる悪事とは聖人になることだとは。そして、ボッカチオのこの著作は、当時の頽落した教会や修道院の愚かさを露わにする立場であることを打ち出しているようです。
 次は、より直接的に当時の教会を批判する話です。第1話より、もっと凄い話で、まさにローマの教会の中枢を痛切に批判しています。これはローマに対する宣戦布告のようなものです。こんなことを著してボッカチオは危険ではないのでしょうか。第1話のチャペレットの話は、第2話の前哨戦に過ぎないくらいです。何しろ第1話はいわば教会組織の一つの末端で生じた特殊事例に過ぎない話しだったのですが、第2話は一般的な事柄として、一挙にカトリック教会の頭に切り込んでいるのです。剣道で言えば、最初に籠手をしておいて、次に一気に面を食らわせているようなものです。

2
 ネイフィレという女性の語りです。
 パリにジャンノットとアブラハムという2人の商人がいました。ジャンノットは敬虔なキリスト教徒であり、アブラハムはやはり敬虔なユダヤ教徒です。2人とも誠実な人柄であり、親しくしていました。ジャンノットは、いい人柄であるアブラハムが、異教であるがゆえに地獄に落ちるであろうことを大変に気の毒に思い、アブラハムに改宗することを勧めます。ただ、加えて、ジャンノットはキリスト教がユダヤ教に勝っているという押し付けがましさも多分に含むようになっていきました。アブラハムは、そんなに言うのなら、ローマに行って教皇や枢機卿の生活ぶりをつぶさに見てきて、その上で改宗を判断したいと言い出しました。ジャンノットはそれを聞いて、自分の努力もすっかり水の泡だと思いがっかりしました。ローマでの腐敗ぶりをジャンノットはよく知っていたのです。アブラハムはローマに旅をして、アブラハムがそこで見たものは、ジャンノットの予想通り、聖職者たちの堕落の極み、つまり淫乱、酒飲み、飽食、聖器売買、金儲けに明け暮れている様子でした。アブラハムはそこにキリスト教の破壊である罰当たりな行為を見ました。帰国後アブラハムはジャンノットに問われて自分が見た状況の感想を話しました。意外にも、アブラハムは、この腐敗のあまりの凄まじさを見て、逆に聖霊を守ることの重要さに気づきキリスト教に改宗することに決意したと答えました。アブラハムは改宗し、名をジョバンニと改め、終生清からに暮らしました。

 誰もがローマの聖職者の腐敗ぶりを知っているぞ、というふうに牽制しているとともに、教会批判はしても、キリスト教に対する熱い信仰を持っていることを主張もしています。
 思うに、当時のローマの教会は、精神世界では大きな影響力を持っていたものの、まだ政治的にはあまり力を持っておらず、イタリアのなかでは幾つかの都市国家の一つでもあり、周囲からは意外に顧みられることも少なく、ボッカチオは自分の身の安全の範囲も考えつつこの著作を世に出したのでしょう。もっとも、この著作はカトリックからは禁書目録のなかの一つに加えられました。
 

3
 昔、サラディーノという大変戦争に強い男がいました。彼は王にまで上り詰めました。しかし彼は金遣いが荒いのが祟って、お金に困るようになり、大きな支払いの期限が迫ってきました。そこであるお金持ちのユダヤ人、名をメルキセデックといいますが、その男から暴力的に金を取ることを思いつきました。サラディーノはそのユダヤ人を自分の王宮に呼びました。いちゃもんを付けるきっかけを作って、ユダヤ人から金を取るためです。王は次のような難問をユダヤ人に与えます。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のうち、どの宗教が一番優れているか、論じてみよと。この3つのうちどれを選んで論じても、このユダヤ人を責め立てることができるという目論見でした。ユダヤ人はこの魂胆にすぐに気が付き、次のような物語を王に聞かせました。
 そのさらに昔、ある国では王権を継承させるにあたり、大変美しい立派な指輪をその継承者に与えるということを慣わしとしていました。しかしある代の王は自分の3人の息子がそれぞれが立派で王の継承者として相応しかったものですから、そのうちの1人を選ぶことができませんでした。そこで王は、この指輪のイミテーションを2つ金細工師に作らせて、指輪は合計3つになりました。あまりに本物そっくりに作ったために、結局どれが本物でどれが偽物かわからなくなり、そのまま3人の息子に渡しました。3人の息子は自分こそが継承者だと思っていたのに、気がつくと他の2人も同じ指輪を持っているではありませんか。誰が本物の継承者であるのかわからなくなり、今日に至るまで、その決着は付いていません。それと同様にユダヤ教、キリスト教、イスラム教もどれが本物なのかわからないのです。それぞれが父なる神によって与えられたものであるので、それぞれが父なる神の御意志によって継承者と認められたものである以上、もはやそれを本物や偽物だということを議論することが神の意志に反していているのです。もっと言えば、父なる神さえその答えがわからなくなっているのです。
 サラディーノはこの答えに大変満足して、このユダヤ人に正直に自分の目論見を話して、率直に借金を申し入れました。そしてユダヤ人は気持ちよくお金を貸しました。さらに王はこのユダヤ人に立派な贈り物として、宮中の重要ポストも与えたのでした。

 この話は、イスラム教国との戦い特に十字軍による聖都奪回だの、ユダヤに対する攻撃だのといった、異教徒に対する戦いを無効化するような内容でもあります。ボッカチオによる教会批判も多面的です。

4
 ディオネーオという若者の話です。再び教会、修道院に対する痛切な批判です。ある人里離れた修道院のある若い修道士が夜に修道院の周囲を散歩していました。すると1人の若くとても美しい娘(少女)を見かけました。彼はその娘に烈しい肉欲をおぼえ、彼女を言葉巧みに口説き修道院の自分の部屋に招き入れ手込めにしました。修道士は大きな悦びを覚えましたが、その光景を実は修道院長が覗き見をしていたのです。修道士は院長に覗かれていることに気がつき、そこで修道士は抜け目なくひとつの策を弄します。修道士は院長に全く気づかないふりをして1人で外出し、その外出したのを見届けた院長が、この娘のいる部屋に入ってきました。この娘は驚き涙を流します。院長はこの大変美しくみずみずしい娘を見て嬉々として強い欲情がわき起こり、修道士のベッドに入り、自分の体の上に娘を乗せて、快楽の限りを味わいました。その後に、院長は自室に戻りましたが、帰ってきた修道士を罰してやるつもりでいました。しかし実は修道士は院長の行為をつぶさに覗き見ていたのです。これは修道士の計画通りでした。修道士は院長に釘をさしました。修道院長は彼を罰することは恥ずかしいことだと考えました。
 話はそれでは終わりません。この2人は、このことを秘密にして、この美しい娘を何度も修道院内に来させて、その都度、快楽を貪ったのでした。
 こうして修道院長と修道士は、若い娘をたぶらかして淫乱の限りをつくす共犯者となったのです。私が思うに、この共犯者たちは他でも悪いことをすることでしょう。

 近年、カトリックの教会や施設で発生した少年たち少女たちに対する性的虐待の驚くべき実態が明らかにされて、ヴァチカンを揺るがす大きな問題に発展しました。現在の教皇のもとではこういった問題は改善されていると思うのですが、こういう類の事例は随分古くからあったと言われています。ボッカチオの場合はフィクションでありながら、当時のこういった堕落の風潮を描いているのでしょう。



第5話
 十字軍遠征の折、あるフランス王が、侯爵夫人があまりに美しいと耳にして、恋心と欲望を抱き、夫が戦争に行って留守をしている間に訪問しました。夫人は王をもてなすために、雌鶏料理を振舞いました。数々の雌鶏料理、つまり雌鶏料理の多くのヴァリエーション、雌鶏料理のオンパレードでした。夫人は王を丁重にもてなしましたが、王が雌鶏料理ばかりである理由を尋ねると、夫人はこう答えました。装いを変えても、どれも同じ女です、と。王は自分の恋心と欲望をもみ消し、出発しました。
 王が次から次へと女を取り替えて味わうことを上手にやんわりと批判したのでしょう。




 第6話
 今度の話者は、私も宗教家に一撃を加えたいです、と話し始めました。
 ある宗教裁判官が、一人の男に目をつけました。この男は少し頭が弱いのですが、金持ちだったのです。宗教裁判官はこの男につけこんで宗教裁判にかけて有罪判決を下し、お金を巻き上げました。そのうえ、この男を自分の家の召使にしました。この男は屋敷の周りの貧乏人たちに裁判官が食べきれないスープを恵んでいました。宗教裁判官がその理由を尋ねると彼はこう答えました。あの世で裁判官がスープの褒美の中で溺れてしまうのが気の毒だからと言いました。裁判官は怒ってもう一回宗教裁判にかけてやりたかったのですが、そうできず、男に消え失せろと怒鳴って放免にしました。