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2016年5月24日火曜日

ボッカッチョ『デカメロン』 第1日目:第7話から第10話

 第1日目の前半はどうしようもないカトリック教会やカトリック教会系の修道院の堕落ぶりについて描かれていましたが、後半からは、教訓的なはなしになってきます。教訓的とは、ここでは、いろいろの人たちの機転のきいた対応の仕方によって、聖職者や王公貴族たちがそれまでの自分の悪いところを改めたというお話です。
 短めの小さな話が多くなります。

第7話
 ある著名な王公が、ある一人の来客を断りもせず招き入れもせずに放ったらかしにしていました。この来客は、自分の3着の上着を売ることで、その地での宿泊費に当てて凌いでいました。この王公はこの来客にようやく訪問させ、からかってやろうと思いました。その際に、この来客は次のような物語を話しました。ここでは物語の中の物語(劇中劇のようなもの)という特徴もあります。
 クリニュー修道院の院長についての一話です。この院長はパリ郊外の邸宅に住んでいました。彼は誰に対しても食事を与えていましたが、プリマッソという有名な詩人がこの食事目当てで院長の邸宅を訪ねました。彼は食事にありつけないことがあってはいけないので3個のパンを持っていました。院長はこの人物が粗末な身なりであり、誰であるのかは知りませんでしたが、意地悪な気持ちが心の中に生じてきて、この詩人に食事を与えずに様子を見ていました。詩人は1個ずつパンを食べて、とうとう3個目のパンを食べてしまいました。院長は、これをみて急に気づくところがあり、宗教的な気持ちが生じてきました。身なりが悪くても実は偉い人だということがあるかもしれない、吝嗇になるのはよくないのではないか、と。そこで院長はその人物が誰であるのかを尋ねて、有名な詩人のプリマッソであることを知り、恥ずかしく思い、最後は着物や馬をあたえ、プリマッソは馬上ゆたかに帰路につきました。
 以上の物語を聞いた王公は、自分の意地悪な行いを恥ずかしく思い、この来客に高価な上着とお金と馬を贈りました。
 訪問者に対する吝嗇を戒める内容であると思われます。

第8話
 まず、貴族の貪欲と吝嗇(ケチ)には怒りでどうにも我慢ならない、と話します。これはボッカッチョがあちこちを渡り歩いた経験から言っているのでしょう。
 エルミークというイタリア一の貴族は貪欲と吝嗇かけてもイタリア一でありまして、彼は自分の衣類や食事にもケチでしたが、人を歓待することについてケチで、というか全然したことがありませんでした。ある日、グイエルモという有名な知識人がこの貴族の邸宅を訪問した時に、この貴族は彼に、人が見たこともないような壁画をここに描かせたいのだが、何がよいだろうか、と不躾に尋ねました。それに対して、グイエルモは、「恩恵」というテーマであると答えました。それを聞いてこの貴族は自分にないものを指摘されて恥ずかしく思い、「恩恵」をテーマに壁画を描かせ、それ以降、自分の行いを改めて、人をもてなすことをするようになりました。

 第7話に続いて第8話も、招かれた人を歓待しない吝嗇家を諌める話でした。この話もボッカッチョが経験した嫌な思いに基づくものではないでしょうか。

第9話
 ある貴婦人がキリストの巡礼の帰途に、数人のならず者に襲われ犯されました。彼女は王に報復をしてほしいと願いましたが、しかし王はもともと自分に対する恥辱を辛抱するグズであり、周囲の人々は日頃の鬱憤を王にぶつけて晴らしたりしていた、という有様でしたのでこの願いも無駄になりそうでした。そこで貴婦人は王の前で、彼女が受けた恥辱を我慢する手立てをどうぞ教えてください、あるいはいっそのことこの災難をあなた様に与えたいくらいです、と訴えました。これを聞いた王は、心を動かされ、これ以降、厳格な処罰者になりました。

 恥辱に対して戦わない王に対する戒めについてでした。

第10話
 これも教訓的なはなしです。第1日目の締めくくりとなります。締めくくりということもあってか、特に文章が綺麗で、味わいがあります。原文が良いのか、翻訳が良いのか、その両方が考えられます。内容もおそらくかなり奥行きがあると思われます。
 70歳になるアルベルト先生という大変に高名な医者のお話です。老齢でありながらも彼はマルガリータという貴婦人に恋心を強く抱き、彼女の顔を見ない日には落ち着かず、夜も眠れないほどでした。彼は毎日、彼女の住む屋敷を尋ねました。ある日マルガリータとその取り巻きの女たちが、そんなアルベルト先生をみかけて、からかってやろうと意図して、邸宅に招き入れました。アルベルト先生は、どうして若者たちに人気のマルガリータに恋をしたのか慇懃この上なく尋ねられ、彼はすぐにその質問の意図に気がつき、嬉しそうな表情をしながらこう答えました。自分のような老人は若者以上に分別があり、愛される値打ちのあるものの価値がよくわかり、愛されるべきところがどういうところかがよくわかる、と。
 マルガリータは自分がこの老人をからかおうとした意図を恥じ、どうぞ思い通りに愛していただければと存じます、ただし定説だけには手をつけません様に、と話しました。
 こうしてこの貴婦人は勝てると思った相手に負けてしまいました。
 みなさま、注意あそばせと貴婦人がたに呼びかけて、ここで一区切り終わります。

 高慢な貴婦人にたいする教訓の話でした。

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 この日の最後に、翌日の女王はフィロメーナが選ばれました。フィロメーナは、翌日のテーマとして次のようなものを提案しました。
「いろいろなことで苦しめられた人が、はからずも幸せな結末に到達した」
 エミリアが舞踏歌をうたい、これを一同は舞踏歌を唱和して、そしてまた踊り、こうして第1日目が終わりました。各人休みました。
 この舞踏歌は、自分の若さと美しさを愛おしみ、そして彼の人に身をささげたいと甘美な気持ちに酔いしれつつ、そして儚さも滲んでいます。翻訳は文語体で七五調で整えられています。和歌のすぐれた伝統ならではの芳しい文章です。


以下は参考画像。


ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
《デカメロン》
1916
年 油彩・カンヴァス
 女性たちは、リュートを持った男が語る物語に聞き入っている。
 しかし、ここでは9人しかいない。つまり男性が3人、女性が6人描かれているので、女性が1人欠けているのである。もう1人はどうして描かれていないのか。もしかして、この光景を見ている女性がもう1人なのか、とも思いつくが、違うような気もする。
 ボッカチオの『デカメロン』の話の内容は猥雑、卑猥、下品なこともあるものですが、そこに集まった女性たちは美しく高貴であるとされている。しかし、ここで描かれているような美しい人たちのイメージはやはり画家ウォーターハウスの時代の上品な美男美女のイメージで描かれていて、『デカメロン』のイメージとも異なっている。

http://artartspot.blogspot.jp/2016/01/blog-post.html