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2016年10月17日月曜日

ダンテ 略伝と人物像のポイン



・1301年からダンテをめぐる情勢はおおきく動き始めたようです。つまりその年に黒派が政変を起こしフィレンツェを支配下におさめました。白派に属していたダンテは追放されました。それまでダンテは白派に属し最高行政機関プリオラートの3人の頭領(プリオーレ)の一人でした。
・ダンテは政治と政争のただなかにいました。そして、屈服しない強い精神の持ち主であったようです。強い芯と信念をもつ人のようです。

・ダンテはこのような心根をもっていたことから、それを知って味方になってくれていた人もいました。

・ダンテのフィレンツェからの追放は、黒派(と白派)の策謀であり、それに教皇ボニファティウス8世の共謀あり。

・白派とも袂を分かちました。

・『新生』La Vita Nuova は1293年頃の執筆。

・地獄篇の執筆開始は1307年前後ではないかともいわれていますがはっきりはしません。1313年ごろには地獄篇と煉獄篇が書き終わっていたようです。その7年後の1320年ごろには天国篇を書き終わっていたようです。つまり天国篇を書き終わったのは最晩年です。


・追放後は、イタリア各地を「乞食同然の流浪」をしました。(ダンテ『饗宴』より)

・ボッカッチョの『ダンテ伝』(1364年)があります。ということはボッカッチョはやはりダンテのことに興味尾関心が高く、とても詳しかったと思われます。ですからボッカッチョの『デカメロン』もダンテとの関連で論じることもできるでしょう。

・ダンテの後半生は、踏んだり蹴ったりの状態ともいえるかもしれません。正義と信念を貫こうとしたが故でもあります。彼のこのような後半生の状態をもたらした人々に対する恨みもこもっているようです。

・ダンテはずっとベアトリーチェを想い続けていたでしょう。ダンテはベアトリーチェなら自分をどう見てくれていただろうという想いをずっともっていたのではないかともおもわれます。ベアトリーチェからみた自分自身の在り方。ベアトリーチェは高みへと導いてくれるエロスの神でもあります。ただ何故ここまで神格化されるのでしょうか。ここまで崇高なものとして高められるより、人間として高めてくれるようなものであってもよいのではないでしょうか。

・晩年には、いつ頃かはよくわからないが、ラヴェンナにて庇護され、移り住み、彼は妻子も呼び寄せました。ようやくそこが彼の定住の地になりました。

・1321年。不運にもマラリアにてラヴェンナにて死去しました。