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2016年10月18日火曜日

『神曲』の喜劇の側面について



 ダンテ自身はこの著作をたんにCommediaと呼んでいたそうです。英語のcomedy、フランス語のcommédieに相当します。ですからCommediaを現代のイタリア語で和訳すれば単に『喜劇』ということになります。ダンテの時代にはCommediaはどのような使われ方をしたのでしょうか。ダンテ自身の書簡などによれば、この著作は悲しみで始まり喜びで終わる物語ととも語っていましとのこと。Commediaを『喜びの歌』というような和訳もありうるかもしれませんが、より賢こそうに『喜曲』と和訳されることもあります。
 地獄においても喜劇的なところが散見されます。やはり現代語の字義通り「喜劇」という意味もありえます。あるいは喜劇という観点を推し進めて、次のようにも考えられるかもしれません。地獄、煉獄、天国へと昇ることが、悲しみから喜びへと向かう道筋であるのですが、これは真面目な観点です。逆に違う見方、つまり喜劇的な観点からすると、地獄、煉獄、天国へと昇るという構想自体が一種の喜劇的な観点を含んでいるかもしれません。このような見方のほうが奥深さが出て面白いのかもしれません。これは検討の余地があります。『神曲』の解釈は一筋縄ではいかないともおもわれます。それだからこそ、この地獄、煉獄、天国へと上昇することが喜劇的ですらあるという観点も今後煉獄篇と天国篇を読むにあたって検討の一つとしたいと思います。たとえダンテがそのようなことをこれっぽっちも意識していなくても、知らず知らずにそうなっていると考えたほうがいいかもしれません。地獄ですら喜劇的でもあるのに、煉獄や天国は喜劇的な側面が皆無だといるのでしょうか。そしてこの上昇の過程が喜劇的なところはないといえるのでしょうか。

 またDivina Commediaとは『神曲』のほかに『神聖喜劇』と訳すこともできます。

 またM・バフチンの考え方にひきつけて、シリアスな側面とともにコメディー、喜劇的な側面について考えるのもよいかもしれません。