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2016年12月16日金曜日

ダンテ『神曲 煉獄篇』 第10~12歌 高慢の罪



 ヒエロニムス・ボスの『七つの大罪と四終』(Table of the Mortal Sins / The Seven Deadly Sins and the Four Last Things)。1485年

 第10歌
 「9」にたいして「10」は完全数であり、神を表します。この第10歌では、神に関するテーマが繰り広げられます。とくに「高慢」との関連です。
 あらゆる悪の始原であるとされる高慢の罪、これは地獄篇では特定の場所が設定されていませんでした。というのも高慢の罪は七つの大罪のなかで最も重く、悪において偏在する根源であるがゆえに特定の場所にはなくて、地獄のどこにでも存在しているからのようです。ですから、ここでは、煉獄篇で高慢の罪に言及されるのは地獄篇のまとめとしての意味もあり、またこれから天国を目指すにあたっての煉獄のなかでの省察の主題として与えられているのでしょう。高慢の罪については3つの歌が費やされていますが、この「3」も完全数です。高慢の反対は謙譲の美徳です。その最大の例でもあるのが「受胎告知」です。マリアは天使ガブリエルから告知され、そのときのマリアは天使に「神の侍女がここにおります」という言葉とともに謙譲の美徳を体現しました。このときに楽園追放以来ずっと途絶えていた神と人との和解が成立したともされます。その他、幾人かの歴史上の人物について高慢と謙譲のエピソードが語られます。
 それにしてもこの謙譲と卑屈の違いはどういった点にあるのでしょうか。また高慢に対する神の罰は手ひどいものがあります。反逆などもってのほかです。神に対する高慢が諸悪の根源とされるのは、いかがなものでしょうか。神は、高慢の人を大岩で押しつぶして、謙譲の美徳を体現するように体を腰から二つ折りにさせて、生活をさせるのです。「もうこれ以上我慢できない」と苦しんで泣いています。

  第11歌、12歌 高慢の罪
 
 第1の環道を贖罪者たちが歩み、「主の祈り」(パーテルノステル)を唱えながら、高慢の罪をつぐなっています。封建貴族、絵描き、新興商人で高慢になった人たちが登場します。また、さらに第12歌では、聖書やギリシア神話に登場する13人の高慢の人の例が示されます。
 ダンテは高慢の罪が洗い流され、最後にダンテの額からは、罪の象徴であるPという文字の一つが消されました。七つの大罪の最大のものである高慢の罪が消されたがゆえに、その他の6つのPも薄くなっていました。ダンテは身軽になりました。