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2016年12月21日水曜日

ダンテ『神曲 煉獄篇』 第13~~19歌 嫉妬、憤怒、怠惰、貪欲


 第13歌 第14歌 嫉妬、羨望、憎しみの罪
 第2の環道にて。
 嫉妬、羨望、憎しみをあらわしているとおもわれる鉛色に覆われています。人々の瞼は針金で縫い合わせされて視覚を遮断され、涙を流しています。こうして彼ら彼女らはこの罪を浄めているのです。瞼を針金で縫い合わせる方法は、鷹の飼育の際に当時行われたこともあったようです。
 またダンテはシエナの拡張主義的な企てを糾弾しています。その他、イタリア貴族や都市国家同士の政争についていろいろに言及されます。イタリアの政治情勢については、なおも言及され続けます。

第15歌 憤怒の罪 第3環道にて。

 天使が現れダンテの額からまた一つPの字を消しました。
 その後第3環道にはいります。そのときダンテは意識がもうろうとして幻視をみました。怒りと寛容(赦し)を説くものです。神による愛(富)は無限にまで増えることができる、それは神を愛する者が増えればそれだけ増えることになります。神と人間はあわせ鏡のように相互に光を反射するようにして輝きを増します。そして神を望む平和な態度こそが怒りを鎮めると。
 いわば「アンガーマネジメント」は、神と人間の間の相互の愛のなかで、神を望む祈りの平和な態度、つまり「観照」にあるということでしょう。


第16歌 憤怒の罪
 聖(教皇権)と俗(皇帝権)の分離を主張します。帝政ローマでは常にこの「二つの太陽」を持っていて、正しく輝いていた、と。その最大の例・原型は、ローマの初代皇帝アウグストゥスの時代に神の子イエスが降臨したことです。本来、教皇権と皇帝権は、双方が間違わないように独立すべきである、とします。やはりここにはいわゆる「政教分離」の考え方が見られます。また、世俗世界においては、教皇権が皇帝権に優越してはいけない、と。宗教、教会、教皇権は地上の統治能力を持たないと考えているのです。地上世界は皇帝権によって統治されるべきであると。教皇は一切世俗的な権力を持つべきではない。これは、地上的世界から見えれば、「象徴的存在」にも近いものかと思われます。もっともダンテの描く「象徴的存在」の内実は充溢しています。教皇権は導き手であり、皇帝権は抑え手です。神がこのようなものとして教皇権と皇帝権を人間に与えたのだと。
 そして、ダンテは、フランスや諸侯と結んで世俗権力の伸長を図る教皇側に反発し、神聖ローマ皇帝による統治を支持します。

第17歌 第3から第4環道
 愛とは神のもとでの愛ですが、愛は誤ることがあります。「あらゆる善行も悪行も愛に起因する」とウェルギリウスは語ります。つまりあらゆる行動は愛に起因するとも言えます。したがって愛それ自体は至上善ではありません。愛を至上善とみなす清新体派の愛の詩人たちを「盲目の輩」とします。
 隣人を憎む高慢、他人の不幸を望む嫉妬、他人への害を望む憤怒です。これらは神ではなく自分を愛することにも依るのでしょう。
 また神への愛が熱意が不足している場合を怠惰としています。
 地上の福を過剰に愛する場合には、貪欲、飽食、淫乱があり、今後そちらに向かうことになります。

第18歌
 第4環道 
 哲学的議論が展開されます。
 肉体つまり質量に対して、本質的形相は魂であるとされます。これは「主特有の能力」を有していて、真、善、幸福、神などを志向する愛、つまり第一欲求を持ちます。これは生来のものであり、理性を超えています。人間は他の諸欲求をこの第一欲求に従わせるにあたって、判断する能力を行使し、またその際に道徳的責任が発生します。ここには人間の「生来の自由」「自由意志」が介在しています。愛においても、この判断力と自由意志に依拠した愛です。

第19歌 貪欲
 ダンテは夢の中でセイレーンと出会います。彼女の斜視は淫乱の罪、ひしゃべた手足は貪欲の罪、吃音は飽食の罪であるとも考えられます。このようにアレゴリーがここでも用いられています。
彼女は第一欲求以外の地上の事物への欲求に従ったのです。またダンテが彼女を見つめると彼女は美しい姿に変身したことは、至上善ではなくて地上のかりそめの美しさでごまかしているようです。またウェルギリウスもこのセイレーンに惑わされていたことから、理性も惑わされることがあり、理性は神によって導かれるべきものであることを示されているようです。
 またひとつPの文字が消されました。そのあと貪欲の罪びとたちの第5環道にはいります。
 ここでハドリアヌス5世(1220年 - 1276年)が登場しダンテと対話をします。彼はジェノバ近くの出身で、政治的野心つまり貪欲により、教皇位までのぼりつめました。しかし教皇になって以降は、この世の栄達の虚しさを悟り、魂を神のほうに向けるようになり、これが「改宗」とも呼ばれます。この煉獄で教皇は、地面に突っ伏し、目を地面にめり込ませて、贖罪をしています。地上の事物「塵」へと直面させられているようです。地上の事物と肉体の本質は「塵」だということなのでしょう。人間は「塵」から創られたからです。

 それにしても、ダンテは、歩いて周囲を観たり対話したりするだけで罪の文字Pがひとつづつ消されるのですから、多くの罪びとたちの長く辛い贖罪とは大違いです。次々とダンテはクリアしていくのです。

Hadrian V.png 
ローマ教皇ハドリアヌス5世(1220年 - 1276年)


第20歌 貪欲
 フランス王のユーグ・カペー(在位987-996)が登場します。カペー朝の祖です。カペーは自分より下の代の諸王の乱行(らんぎょう)を悔いていて、自らを「悪の木の根元」と呼び、泣きながら嘆き語り、フランス諸王の貪欲ぶりを非難します。カペー朝はこれまた貪欲な教皇と同盟を結んで神聖ローマ皇帝をイタリアから追い出して南ヨーロッパに拡張主義政策をとったので貪欲とされます。ルイ9世は教皇と結託してイタリアに進出。フィリップ美王の弟シャルル・ド・ヴァロワは1301年フィレンツェにてクーデタをおこして教皇庁・フランスに寄った黒派政権を樹立しました(これによりダンテは追放)。フィリップ美王は教皇ボニファティウス8世を攻めて憤死させたといわれています。ダンテにとって、教皇はイタリアの統治にかかわることを認めませんが、かといってフランスのように教皇のキリスト教世界での権威をないがしろにしたりすることも認めません。
 またフィリップ美王は1312年に国の莫大な借金を補うために、テンプル騎士団に対して異端審問を行い、財産を没収しました。異端審問とは法的には教皇の専権事項だのに、独断でそれを行ったのでした。ここでも宗教と政治が混同されています。ダンテはカペー朝フィリップ美王において、とくにローマ教皇の権威とローマ皇帝権の両方を侵食したと考えているようです。






















ユーグ・カペー(在位987-996)

 フランク王国がおわり、フランス王国の祖でもあり、ルイ16世、7月王政のルイ・フィリップに至るまで、すべて彼の子孫だとされます。




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第21歌 吝嗇と浪費 
第22歌~24歌 第6環道 飽食

吝嗇と浪費、飽食も貪欲の範疇にも入るのでしょう。
また24歌ではまた一つPの文字がダンテの額から消されました。