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2016年12月14日水曜日

ダンテ『神曲 煉獄篇』 第5歌 相手を赦すことについて。




第5歌
 ウェルギリウスは塔のように揺るぎなく堅固な意思と理性をもつことを求めます。これはある種の公平性を自身の中に確固として保持することも意味しているとも思われます。<恨みを忘れ、相手を赦すこと>が主題になっています。

 そもそも地獄では、恨みが入り乱れていました。ダンテ自身の義憤と恨みの混合が随所で現れ、悪行を働いた人々が永遠の責め苦にあっています。それにたいして、煉獄では自らの罪を省みつつ、他者を赦すことがテーマにもなります。
 この第5歌では、政争や戦争などの戦いのなかで、暴力により命を絶たれた者たちに出会います。彼らは自分の生前の罪を改悛し、また自分を殺した相手を赦しました。彼らは敵味方として互角に戦った者同士であり、謀殺もあったにしても、それはお互い様の範囲でもあったとも思われます。そもそもかつて敵と死闘を繰り広げても、時がたてば、お互いに赦すことができることもあるものです。日米の戦争はその典型でもあります。でも公平にみて、どうしても赦しがたいことも含まれることもあるものですが。
 また、煉獄のなかでは、人々はお互いに相手を赦しあうことができますが、しかし、地獄の中にいる人たちにたいしては、地獄で永遠の責め苦にあっているという限りにおいてのみ赦すことができるのでしょう。そしてそれは赦すというよりも無関心に近いものとなります。それは実質的には絶対に赦すことはできないということに近いと思われます。この第5歌の第三の例であるトロメーイという殺害された女性がこれに相当するでしょう。

 第6歌
 教皇党や皇帝党といった党派を組んで、争い、しかし、死ぬ前に相手を赦し信仰を取り戻した者たちがいます。

 第7歌 王侯たちの谷
  王侯たちのいる谷です。彼らは、子孫たちが十全に機能していないことを嘆いてもいます。
 ダンテの思想では、諸王の上に立つ皇帝によって世界平和をもたらされることを待望します。つまりドイツから、神聖ローマ皇帝が南下してイタリアにやってきて世界に再び「ローマの平和」を復興することを期待しました。ウェルギリウスは、帝政ローマの正統性を象徴的に示す人物でもあります。
 キリスト教世界の首領である教皇によって世界平和が確立されるのではなくて、世俗における権力の頂点によって世界平和が確立されます。『神曲』はキリスト教が基盤ですが、主としてそれは精神世界およびそれに派生する人々の活動であり、また死後の世界のことです。政治の世界における平和が達成されるのは、世俗権力によって、しかも高度に集権的な普遍的な権力によってです。このあたりにギャップがあります。「ローマの平和」をもたらしたローマ帝政(アウグスティヌス帝など)やその象徴でもあるウェルギリウスは異教の世界です。キリスト生誕以前の人であるウェルギリウスはキリスト教徒ではありえないので、天国には行けません。これは宗教と政治の矛盾あるいは溝が現れてると思われます。あるいは「政教分離」ともいえるかもしれません。ダンテは、地上に神の王国を築こうと構想してはいませんでした。時代はかなり下りますがフィレンツェでは15世紀にサヴォナローラがでて、フィレンツェに宗教政治を興して多くのフィレンツェ人が信奉者になりましたが、ダンテの考え方はそうではありません。神の世界はあくまで天上にあり、地上の世界は、煉獄に似て、自らを省みて、天井を仰ぎ見て日々を努める生活を送ることになります。そして皇帝の政治的な権力と、教皇の精神的な権威は別々のものです。
 
第8歌 王侯たちの谷
 追放
 王侯たちは、一族で徒党を組んだり、あるいは内部紛争、あるいは政争、策略、陰謀、戦争などをおこないます。このように分裂して闘争する理由のひとつは、多くの王侯の上に立つ皇帝権がないからです。宗教にはキリストを長とする権威の確立が望まれ、政治的には皇帝を長とした権力構造の構築が望まれています。

 以上は前煉獄でした。次に煉獄門へと移動します。