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2016年12月7日水曜日

ダンテ『神曲 煉獄篇』 第3歌 ローマ皇帝に相応しい人物、ナポリ・シチリア王マンフレーディについて。

 第2歌
 ダンテの未完の作品の『饗宴』のなかから、哲学を貴婦人にたとえ賛美するたカンツォーネ。

第3歌

戴冠するマンフレーディ

 ナポリ・シチリア王マンフレーディ(生没年1232-1266)について。世代としては彼はダンテが1歳くらいのときに死去した人です。マンフレーディはダンテにとって重要な人物です。

 マンフレーディは正当な後継者が死去したということが、誤報であることがわかったあともそれを受け入れずに(あるいは自らがこの誤報を発した)、王位に就きそれを手放しませんでした。父親である神聖ローマ皇帝フィデリコ2世の代から教皇庁と対立し、父親と同様に彼も世界帝国再興を目指しました。彼は1260年にモンタペルティの戦いで教皇党を圧倒し、イタリア統一目前でしたが、その後に教皇党のマンフレーディ十字軍に負けて、殺害されました。教皇党がフランスと手を組み、イタリア封建領主たちが裏切ったからでした。また教皇インノケンティウス4世は彼を破門し、クレメンス4世は彼の遺骨を川原に捨てて野ざらしにして、ローマ教会によって彼は地獄に落されることを決めたかのようでした。
 しかしダンテはマンフレーディを地獄にではなく煉獄に置きました。彼もやがては天国に昇ることになります。
 ダンテの思想では、世俗の支配権は、神の意志により、ローマ帝国に与えられています。ローマ帝国がよき国家を建設する責務を与えられています。マンフレーディは神慮により王位の正当性が与えらていると見なされています。彼こそがローマ帝国の主(あるじ)になってしかるべき人物でした。彼が死去したのはキリストと同じ34歳であり、彼が時の教会組織から破門されたという点もキリストと似ており、またマンフレーディはキリストの傷を想起させる胸の上部の刀傷をダンテに見せて自分の正体を明かしたのでした。ダンテはマンフレーディの人間としての高貴さを認めています。この書のなかでのマンフレーディの語り口は彼の清廉な人格を表しています。