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2021年3月23日火曜日

『谷間のゆり』バルザック

Le Lys dans la vallée


1835年から36年にかけて発表。


「人間喜劇」では「風俗の研究」の「田園生活風景」に分類されます。

主人公である青年貴族フェリックスは不幸な生い立ちの過去を持っています。物質的ではなく、親からの愛情の欠如によって、暗く厳しくそして不幸な雰囲気を醸し出していました。これは作者自身の生い立ちの経験からくる印象とも重なっているのでしょう。彼は成人したばかりのような若者ですが、外見は年齢に比して子供のようにも見えたといいます。バルザックの若かりし頃の肖像画も童顔に見えます。フェリックスの容貌のイメージもこれに近いものでしょうか。



 憂鬱に沈むフェリックスは、あるとき舞踏会で一人の若い女性を見かけます。彼女こそ彼の運命の女性であるモルソフ伯爵夫人でした。初めての出会いのときには、彼女のことは何も知らず、彼はあろうことか思わず後ろから彼女の肩から背中にかけて熱烈にキスをしたのでした。彼女は逃げましたが、後日、フェリックスはモルソフ伯爵夫人と偶然に再会しました。そしてそのときから二人の交流がはじまったのでした。モルソフ伯爵夫人は結婚しているし、夫モルソフと病弱な子供二人と暮らしていました。伯爵家でありながら、ナポレオンの時代に、夫モルソフは亡命生活を送り、経済的にもすっかり没落していました。もっとものちにルイ18世の王政復古により(1814年)、地所や財産を取り戻すことができて豊かにはなりました。

 夫モルソフは、紳士的で誠実な人柄であるのですが、時に発作的に不機嫌になり、とりわけ妻に攻撃的になり、言葉の暴力によって精神的に痛めつけるのでした。妻は貞節であり、夫に尽くしていて、そして夫の理不尽な暴言にもただ黙って耐え忍ぶだけでした。とても美しい伯爵夫人ではありましたが、夫婦の性的な関係もありませんでした。彼女もフェリックスも、親の愛情不足のなかで育ったため、そして他者の気持ちをよく察知することができる能力が高かったために、二人はすぐに気持ちが通じ合うのでした。そのときから二人の関係は深く結ばれるようになったのでした。交流が深くなるにしたがって、ふたりはより親密になり、お互いを求め合っていました。モルソフ伯爵夫人は自分の愛称である「アンリエット」で自分を呼ぶことをフェリックスに許しました。彼女にとって「アンリエット」という愛称には特別な意味合いが込められていて、親の愛情を受けられなかった薄幸の生い立ちのなかで、ただ伯母の深い愛情を受け、その伯母が彼女を呼ぶときに「アンリエット」という愛称を使ったのでした。その伯母は彼女の心の救いでした。ですので、ファリックスにそれと同じような愛情を注いでもいい、という許しでもありました。アンリエットにとってフェリックスは男として愛情をいだく唯一の対象でした。このように伯母によって受けた愛情とフェリックスから受けている愛情はかなり近いものでありながら、性愛という観点では二つの愛には決定的な違いがありました。だいいち、フェリックスがアンリエットに出会ったときに、何はともあれまず肉の欲望が表出されていました。そしてその後ずっとこの矛盾をはらんだ問題は尾を引くことになりました。フェリックスはアンリエットとの愛情の成就(つまり性的な関係を結ぶこと)をいつも望んでいたと言えるでしょう。そしてアンリエットはそうならないようにいつも配慮していました。でも二人の体の距離はとても近くなっていきました。それでもアリンリエットは決して結ばれようとせず、そのことをフェリックスも理解していました。二人の関係はプラトニックな外観を保ちながらも、内実はそうではなかったのです。アンリエットもフェリックスが強引な行動に出て欲しいと願っていたほどですが、そうはならなかったでしょう。アンリエットは、彼の立身出世を願って、彼をパリへと送り出し、フェリックスはルイ18世の書記官となり王の篤い信任を得るようになりました。またアンリエットは将来は、自分の娘とフェリックスを結婚させようとも考えていました。アンリエットはとても賢明な人でした。


 でもここで軌道が変わります。フェリックスとアンリエットの純愛はパリの社交界ではとても有名になっていて、モルソフ伯爵だけがそれを知らないのでした。フェリックスはこの純愛のためにパリの社交界でモテモテであり、なかでもダッドレー夫人(アラベル)と愛人関係となってしまったのでした。アラベルは純愛のファリックスを食べて、フェリックスはアラベルに食べさせたのでした。このことで、アンリエットは嫉妬で苦しみ食事を摂らなくなり、餓死を遂げてしまいました。フェリックスはなんとかアンリエットの最期を看取ることができ、二人のこれまでの愛情を確認することもできました。しかし、彼の愛情生活という観点からすれば、もう取り返しのつかないくらいの大きな損失となりました。アンリエットの二人の子供、ダッドレー夫人、そして新たに付き合い始めたナタリーからもすっかり冷たくされるようになりました。もはやどのような女性によってもこの穴を埋めることは難しいようです。彼にとって決定的なまでの損失です。フェリックスは、愛情の少ない生い立ちでありながら、これからも愛情の欠損を抱えたままとなるのでしょう。