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2021年6月13日日曜日

『ナナ』 エミール・ゾラ

 

『ルゴン・マッカール』叢書第9巻。

1878年ゾラ38歳のときからこの作品の制作にとりかかりました。『居酒屋』を発表した翌年です。『ルゴン・マッカール』叢書の計画を立てていた頃、つまり10年も前から、ゾラは娼婦との放蕩の世界を書こうと考えていたようです。

まず、この小説の細密描写は、ものすごく細かいです。リアリティをだすためなのでしょうか。日本語でこの細密描写を読むと、辟易して読み飛ばしたくもなりますが、フランス語で読むと、日本語より描写は明確でむしろわかりやすく、文学的な香りが感じられると思います。

 

主人公ナナは、『居酒屋』でジェルヴェーズとクーポーの間に生まれました。『居酒屋』で描かれるナナは子供の頃には残忍な性格の側面を見せ、祖母の死に興味を持って死者の寝床を好んだりというふうで異様な特性さえ生々しく描かれていました。思春期のナナは、男で苦労し、やがて中年の貴族風の男だかに金で囲われて情婦となっていました。『居酒屋』のナナとこの『ナナ』とは少し異なった印象があります。かつてのナナのほうが、危険でシャープな感じで、こちらのナナはむしろ丸みを帯びています。

そして遺伝という観点から考えると、ナナ自身の自堕落の血筋にくわえて、周囲の人々を堕落させるという特性へと変異しています。『居酒屋』では周囲を堕落させる第一人者は義父のランティエでした。血はつながっていません。ナナはランティエのような狡猾ではありませんが、周囲を腐敗させる「蝿」に例えられつつ描かれています。ナナの「蝿」ぶりが最初はよくわかりませんでしたが、小説の後半にはその意味がわかってきます。男たちは堕落の果に、破産するもの、自殺するもの、横領によって身を滅ぼすもの、家庭が崩壊するもの、いろいろです。財産を失うことが遊び人として男の風流のように思っている人(ファロワーズ)さえいます。彼女に関わりを深く持った上流の男はことごとく破綻しました。そういった筋書きは魅力的でもあります。『居酒屋』では下層民の退廃を描き、それにたいして『ナナ』では、上流階級の退廃を描いています。面白いパースペクティブの一つです。最貧民(第4階級とも呼ばれていたようです)の出身のナナが貴族階級を食い潰してしまいます。ナナは貴族やブルジョワの莫大な金を食い潰す貪食家となりました。ここに階級対立を表しているとも見ることができるでしょう。あるいは社会主義的な観念が混入している可能性もあります。下層民が上流階級の人々に反乱を企てるというパースペクティブの一変形です。この観点は1989年の『パリ』という作品に明瞭に現れています。ただしこの階級対立は労働者とブルジョワという社会主義思想の公式の対立図式ではありません。

 また、下層民が上流の人に報復すると言っても、ここで登場してくる上流の人々はさほど悪人ではありません。ナナも極悪人というわけでもありません。

 そして主に描かれている上流階級とは、ブルジョワジーよりも貴族階級です。19世紀後半の第2帝政期ですから、貴族階級も大分に陰(かげ)りが見えています。後の『パリ』で描かれるのは、真の敵として特定されているのは、ブルジョワジーです。この階級は第4階級(最貧民層)を喰い物にしていると決めつけています。これは、独特ともいえる社会主義的な思想です。この『ナナ』においてはまだ、ブルジョワジーよりもむしろ貴族階級を主に据えています。当時、すでに霞(かす)んできているような貴族階級です。

 そして最後はむしろ融和の雰囲気で終わります。

 

作者であるゾラは下層階級の出身であり、作家として成功するまでは、貧困を経験して苦労してきました。ゾラはよく知らない貴族階級の様子を描写するにあたって、調査をして情報を集めていました。それでも描写はリアリティや迫力があまり感じられません。ゾラは下層民の描写のほうがリアリティがあります。『居酒屋』のクーポーやジェルヴェーズの堕落ぶりは、身につまされる感じがします。自分の中にもそのようなところがあるのではないのか、と思い当たらなくもない、というリアリティです。他方『ナナ』ではナナに魅惑された上流階級の男たちの堕落ぶりは、私にはあまり心的リアリティをもって訴えかけるものが感じられません。なぜそんなにナナという女に惹かれるのか、ピンときません。ナナという女性像がどんな男でも魅惑されるという設定になっています。しかし当時はそうだったとしても、現代のすべての男性にとって好みの対象とはなりにくいようにおもわれます。

ブルジョワジーを描く前に、順番として霞んできている貴族階級を描かざるを得なかったのでしょうか。貴族階級の存在自体が、当時はもうすでに霞んできて、リアリティが薄いです。ブルジョワジーのほうがリアリティが濃かったはずです。第2帝政においては、おそらく、ブルジョワジーと貴族階級のバランスをっていく方針だったのでしょう。それが崩壊して以降は、ブルジョワジーが覇権を完全に握って、経済を復興させ、発展させたのだと考えられ、ゾラは、後にこの戦後世界を描くことになります。それをどのように描くのでしょうか。

 また貴族階級を描くから、そんなに悪い人たちとしては設定されていないのかもしれません。